用語 |
概略説明(やきものの里を訪ねる 実業之日本社からの抜粋他) |
| 有田焼 |
今回ご紹介の焼き物有田焼(ありたやき)は、日本を代表する焼き物の一つです、佐賀県西松浦郡有田町が生産地です、
有田焼の特徴は「独創性」「アート性」「伝統の隠し味」が有り、白く焼きしめた肌に青の染付模様、
赤や緑や黄色の絵具で描かれた花や鳥、金色をアクセントに使う手法である。
磁器の焼造は17世紀初頭から始まった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本へと連れ帰った。
肥前国鍋島藩主・鍋島直茂が連れ帰った、その中の一人が李参平(りさんぺい、イ・サムピョン、一説には韓国の忠清南道金江出身)である。
彼は1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた有田焼の祖と言われています。
茶苑呑では有田焼のカップを多数取り扱っています。 |
| 常滑焼 |
今回ご紹介の焼き物常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる陶器。
平安時代末期(12世紀)には、常滑を中心にして知多半島の丘陵地 のほぼ全域に穴窯が築かれ、山茶碗や山皿、壷などが作られました。
この 時代に作られた焼き物は、一般に「古常滑」と呼ばれています。当時、焼 き物を作っていたところは、「日本六古窯(常滑、瀬戸、信楽、丹波、備 前、越前)」
と呼ばれていますが、中世常滑窯は、その中でも最も大きい 生産地でした。
茶苑呑では常滑焼のカップは取り扱っていません。 |
| 袖師焼 |
今回ご紹介の焼き物袖師焼は明治初期に松江市上乃木の皇子坂に開窯されたのが始まり。初めから民芸運動に加わり、地元の粘土を用いて新作の民芸品として日常の暮らしの器物を作るようになりました。
出雲に伝わる技術をベースに、地元に産する陶土や原料にこだわり、丈夫でシンプルな中にも潤いを持つのが袖師焼の特徴。しかし、各地の様々な陶法をとりいれ、ときには訪れる人との会話の中から発想した時代ニーズにマッチした作品づくりを行っているのも袖師焼ならではの柔軟性です。
食器類、酒器、茶器、花器など主として日常家庭用品を製作し、近年では、赤土粘土など、これまでと違った土を使用した作品づくりにも挑戦しています。
茶苑呑では常滑焼のカップは取り扱っていません。 |
| 益子焼 |
今回ご紹介の焼き物の益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器である。
19世紀の中頃、笠間焼の影響を受けて始まりました。初期の益子焼は、藩の援助を受けて日用品を焼いており、
そうして作られたものは江戸の台所で使われていました。大正13年から作家活動を始めた浜田庄司は益子に住む陶工達に
大きな影響を与えました。そこから、現在、益子焼として親しまれている食卓用品や花を生ける器等が作られるようになりました。
益子の良質な陶土を使って、白化粧、刷毛目(はけめ)等の伝統的な技法で力強い作品が大量に作り出されています。
茶苑呑では益子焼のカップは取り扱っていません。 |
| 会津本郷焼 |
今回ご紹介の焼き物の会津本郷焼(あいづほんごうやき)とは、福島県会津美里町(旧会津本郷町)周辺を産地とする陶器及び陶磁器である。
1593年に領主である蒲生氏郷が薩摩国から瓦工を呼んで鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりである。
17世紀中頃に藩主の保科正之の求めに応じて瀬戸から陶工・水野源左衛門が呼ばれて本格的に焼き物の基礎を築いた。
1800年には有田や京都で学んだ佐藤伊兵衛が磁器の製法を伝え現在の会津本郷焼の原型が完成する。
会津本郷焼で使われる釉薬に「飴釉」がある。飴釉は文字通り飴色で光沢を持っている。
この飴釉を使った代表的な陶器が「ニシン鉢」で古くからニシンの山椒漬けに使われてきた。
茶苑呑では本郷焼 酔月窯のカップを取り扱っています。
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| 三川内焼 |
今回ご紹介の焼き物は三川内焼(みかわちやき)は別名「平戸焼」ともいう長崎県佐世保市の陶磁器である。
1598年,豊臣秀吉が,朝鮮に出兵します。その時,出陣した平戸藩主,松浦鎮信(まつうらしげのぶ)が,巨漢(きょかん)などの陶工(とうこう)を100人余りを連れて帰りました。そして,平戸の中野村で焼き物を焼かせたのが始まりだといわれています。三川内焼きの特徴はなんと言ってもその生地の美しい白さに紺色で絵付けされた唐子模様(からこもよう)です。唐子とは,かわいらしい中国の子ども達です。
天草陶石を用いた白磁に藍色で絵付けがされた物に代表されます。
茶苑呑では三川内焼人気の染付けカップを取り扱っています。
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| 波佐見焼 |
今回ご紹介の焼き物は波佐見焼(はさみやき)は長崎県東彼杵郡波佐見町が産地です。
波佐見焼の誕生は今からおよそ400年も前にさかのぼります。慶長3年(1598)、文禄・慶長の役に参加した大村藩主・大村喜前は朝鮮の陶工・李祐慶兄弟たちを連れ帰りました。その翌年彼らが波佐見町村木の畑ノ原、古皿屋、山似田に階段状連房式登窯を築き、やきものづくりを始め、ここに波佐見焼は産声をあげたと伝えられています。
波佐見焼といえば、染付と青磁が中心ですが、初めは施釉陶器を生産 していました。その後、村内で磁器の原料が発見され、しだいに染付 と青磁を中心とする磁器へ移行。ついには大村藩の特産品となり、江戸後期には染付の生産量が日本一に。こうして波佐見焼は、染付・青 磁ともに大生産地に発展してきたのです。
茶苑呑では波佐見焼のカップを取り扱っていません。
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| 赤津焼 |
今回ご紹介の焼き物は赤津焼(あかつやき)は愛知県瀬戸市赤津町にて焼かれる陶器。桃山期茶華道の発達に伴い、黄瀬戸、志野、織部の各釉が出現し、
その優雅な美しさは、茶陶を中心として各焼物に及び、今日も変らず赤津焼の代表的なうわぐすりとして多く用いられています。
江戸時代の初期尾張徳川家による尾州御庭焼によって御深井釉が用いられ、玄人好みのうわぐすりが一段と冴えて、見事なろくろ技術や、
たたら技術によって他に類をみない多彩さを誇り、十二種もの装飾を駆使して今日も尚、赤津焼に生かして、
その伝統を守り制作されています。茶苑呑では赤津焼のカップを取り扱っていましたが、完売状況です。
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| 布志名焼 |
今回ご紹介の焼き物は布志名焼(ふじなやき)は島根県松江市玉湯町にて焼かれる陶器。江戸時代に松江藩の御用窯として開かれた窯場(雲善窯)で、
大名茶人でもあった松平不昧公の好みを反映した茶器が焼かれた。後に民窯の船木窯も開窯し、黄釉や出雲青地と呼ばれる青釉の日用雑器を焼き、
一時は海外への輸出も盛んに行われるほど隆盛を極めた。布志名特有の黄釉色絵物が全盛の明治頃は、国内ばかりでなく海外にまでも販路を広げていた。
昭和に入ってからは柳宗悦や河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチらの民芸運動にいちはやく共鳴。そこでもたらされた技術をとりいれながらの作陶が、
県下の陶芸界にも大きな影響を与えた。化粧泥で模様を施したスリップウエアと呼ばれる技法もそのひとつである。
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| 大谷焼 |
今回ご紹介の焼き物は大谷焼(おおたにやき)です、大谷焼の特徴は、寝轆轤と呼ばれる独特の轆轤を用いて制作される大甕で知られる。
寝轆轤は相手が寝ながら足を用いて回す仕掛けで基本的に大甕作りは二人の呼吸が合っていないと作れない。
尚、この大甕は阿波地方の特産である藍染めに欠かせない道具であり、藍甕と呼ばれる。
大谷焼(おおたにやき)は徳島県鳴門市の大谷地区で作られる陶器である。
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| 壺屋焼 |
今回ご紹介の焼き物は壺屋焼(つぼややき)です、壺屋焼の特徴は、その素朴さと力強さにある。
どっしりとした重量感の器は、暖かみと風格が見る物、使うものに、自然と伝わるといわれる。
この力強さや暖かみは、長い伝統に培われた技法と、土と火によって生まれたものである。
壺屋焼は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる陶器です。
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| 上野焼 |
今回ご紹介の焼き物は上野焼(あがのやき)です、茶陶として発展した上野焼は、他の陶器類と比較して、極めて軽く、薄づくりであるという特徴を持っています。
五感に心地良い、土の持つ素朴さ、力強さの中に「薄づくり」の上品さを秘めたその特徴は現在にも受け継がれています。 上野焼は福岡県田川郡香春町、福智町が生産地です。
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| 大堀相馬焼 |
今回ご紹介の焼き物は大堀相馬焼です、旧藩政時代には相馬藩内で生産される陶器を相馬焼と呼んでいましたが、今は産地名大堀の名を入れて大堀相馬焼と呼んでいす。
創業は今から約300余年前、藩士半谷休閑の下僕左馬という人によって創始され、次第に近隣へと伝えられて行きました。
大堀相馬焼は、福島県双葉郡浪江町大字大堀一円が生産地です。
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| 石見焼 |
今回ご紹介の焼き物は石見焼です、石見焼は島根県江津市が産地です、
江戸時代中期に、地元の職人が、現在の山口県の陶工より製陶法を習い、石見焼の片口や徳利等の小さな製品が作られるようになりました。
磁器に近い粘土を使い、鉄を含む地元の石を使った茶褐色の釉薬(ゆうやく)や、アルカリを含む石を使った透明な釉薬を用いた製品が主力です。
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| 瀬戸焼 |
今回ご紹介の焼き物は瀬戸焼です、瀬戸焼は「瀬戸物」が磁器主体なのに対して、伝統工芸品指定にされた陶器主体の赤津焼も有ります。
あかず町には手作りの器生産の伝統を受け継ぐ窯元や作家活動を行っている陶芸家が集中しています。
茶苑呑では赤津焼の窯元霞仙陶苑のカップを取り扱っています。
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